

No.2
誰にでも青春期というものがあり、その時期のことは後年に様々な影響を及ぼしていくものだ。秋山清にとっても、もちろん例外ではない。現在の北九州市門司区今津で生れた秋山は、小倉中学(現・小倉高校)に進学した。五年間、「人家一三〇ばかり、人口七〇〇ほどの、瀬戸内海の周防灘に向かった漁民部落」(『目の記憶』)から出発し、鹿喰(かじき)峠を越え、大里駅(現・門司駅)まで二時間かけて歩き、列車で小倉駅まで行き、さらに三十分歩いて中学校まで通っていた。後年、秋山をよく知る人たちが舌を巻く健脚ぶりはこの時、培われたものであった。鹿喰峠を歩いて越えたことを、「動物や植物との親しみを私はその峠の季節のなかで、自分の目と自分の肌に感じとることができた」(『同前』)と後に述べていて、この頃から草花好きだったことが分かる。また、短歌や詩のようなものを書き始めたり、大杉栄の名を知り、秋山の愛唱歌として知られる「流浪のうた」に出あったのもこの時期であった。さらに、五年生の夏、突然、正選手として野球部に入っている。全国大会の予選は三回戦で敗退したが、野球好きは、そこから始まったといえそうだ。大正十二年四月、日本大学法文学部予科に入学するため、秋山は東京に向かう。
(久保隆)