

石川三四郎の葬儀のとき、はじめて秋山清と会った。あつまった人びとの中で、秋山さんは、石川さんから、これから教えてもらうことが多いと述べた。
石川さんの追悼集会の中心となり、書記の役を買って出て、家永三郎、大澤正道などとともに、この会の事務の中心になり、会の記録をつくった。彼なくしては、参会者の個人を見わけることはできなかった。
人を見きわめる力。私は、その後長く彼のこの力に助けられた。『共同研究転向』を私が、私よりさらに若い人たちの協力を得て八年間つづけることができたのは、秋山さんのような年長の人の判断をきくことができたからである。
私は京都から東京に出てきて、神保町のあたりでぱったり秋山さんに会った。ヘルペスから回復したばかりだという。閉鎖になった映画館の前でここは昔はこうだったと言い、さらに市ヶ谷駅のころの吉行エイスケ夫人の美容院には後ろから入る怪談があって、エイスケに用事のある人は、美容院をとおらずにあがってゆくことができたなど。
よくおぼえていますね、と私が言うと、「きく人があればね」と返事がかえってきた。胸をつかれる思いだった。もっと何度も機会をつくって、そのはなしをきくべきだった。
『文学の自己批判』をすぐれた本と思う。
鶴見俊輔
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木材新聞を発行していた戦後の秋山清が木材のエキスパートであることは、よく承知していた。だが、年少のわたしなどとの会話では草花の話とか竹久夢二の風俗画の話とかが、よく語られた。いづれも日本国と日本の詩人や作家の豹変ぶりのずる賢さに絶望感をみなぎらせていた戦中派くずれの若者には優しすぎる話題だった。だが、たしか、長谷川龍生が最初に東京にもたらした秋山清の詩「白い花」を讀んで、ああこんな嘘のない真っ当な抵抗詩を戦争期に書き記していた詩人がいたんだと知って、大げさにいえば、生きて行けると納得された。その詩のなかのヒメエゾコザクラという極北の島に咲いていたと秋山清が記している草花と、その詩人の名は、誰がどう言おうと、わたしのなかで不朽のものになった。
今度秋山清の全貌をうかがえる機会がやって来たと知って、真っ先にもと、取るものも取りあえず馳せ参じた次第だ。
吉本隆明
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秋山清は秀れた詩人だった。声は低く静かである。彼の作品は読む者を驚かせるような表現は一切使わず、淡々と書かれた詩に見える。しかし、その奥にはとてつもなく深い嘆きと、涙になって流れてはまた蒸発して朝日に夕日に茜色に染まる哀しみが拡がっていることが読んでいると分かってくる。
今、僕の手もとに晩年の彼が「古稀の記念に」
と言われてから一年以上かけて編んだ『恋愛詩集』という一冊がある。
描写は適確だし、表現に無駄はないし、そして全篇に秋山清の優しさが小さなしっかりとしたリズムを奏でている。
「かもめ」とか「山羊詩篇」などは詩人かいかに生命あるものに共感しているかが伝わってくる。この「恋愛」の対象は、いく種類もの植物、自然現象全体への恋を歌っているのだと気付く。
僕はずっと昔、新日本文学の編集部に一年ほどだがいたことがある。その頃、何度か秋山さんに会った。いつも静かで優しい人だったから、アナーキストと呼ばれている人は人間の淋しさ、哀しさを人一倍感じる人なのだと思っていた。その延長線上で、詩人であるにはアナーキスト的心が求められるのではないかと考えた思いが、今も残っている。その点は小野十三郎さんの場合も同じだけれども。今度その秋山さんの著作集が出版されることは、一詩人として何とも言いようのない喜びである。
辻井 喬